日本災害復興学会2015年東京大会エクスカーション案内

~大会会場周辺でみる『関東大震災』と『帝都復興』の現場~



2 避難生活の現場
2.1神田 三井家神保町邸跡
住所:〒101-0051東京都千代田区神田神保町2-8-2附近.ほか,近くでは,岩崎家茅町邸(〒110-0008 東京都台東区池之端1丁目3-45),浅野家池之端邸(〒113-0032 東京都文京区弥生2丁目11-16東京大学本郷キャンパス浅野地区)などにも
当時は避難計画などなく,堅牢な公共施設もごく僅かであったため,住まいを追われた被災者たちは官公署や学校,社寺,そして富豪邸などの敷地,そして大規模な空き地に避難者が入り込み,自らシェルターを構えたり,その場所で提供される公設バラック(東京府や東京市など建設した平屋で簡素な造りの仮設の集団アパート)に滞在した.
この三井家神保町邸を含めた三井財閥の各家ならびに各企業も自らの建物の焼失跡や空き地に仮設住宅を建設し,臨時震災救護事務局という省庁の連絡会議への寄附を通じて被災者に住まいを提供した.

図2-1三井家神保町邸跡バラック (出典:田中傑(2009),関東大震災後の罹災者収容バラックと三井諸会社による活動の位置づけ,神奈川大学 非文字資料研究センター 年報非文字資料研究 第5号,p.45,2009年3月)
2.2神田 淡路町 東京商工学校跡 謝恩碑
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3丁目2-1新御茶ノ水アーバントリニティビル付近
東京商工学校(現,埼玉工業大学)は震災の前年に竣工した校舎(鉄筋コンクリート造3F建て)が震害の被害を受けず,また火災の被害も1Fの一部を受けたに過ぎなかったため,近隣の避難民を受け入れた .これを謝恩する碑が現在も残されている.

図2-2-1 東京商工学校 校舎新築落成記念絵はがき (出典:田中蔵)

図2-2-2 東京商工学校 (出典:田中蔵)

図2-2-3 震災記念謝恩碑(現代の写真,石碑) (出典:田中撮)
2.3靖国神社や牛が淵附属地
住所: 〒102-0073 東京都千代田区九段北2丁目1(靖国神社参道付近)および〒102-0074 東京都千代田区九段南1丁目6-2(旧牛が淵附属地)
九段坂上の靖国神社の境内やお濠端の牛が淵附属地(現在,昭和館や九段会館などが建つ一帯)に逃げ込み,そこに留まった約3,000人の多くが公設バラックに収容されたが,そのような状態が長く続くと,建設場所を提供している主体の通常の生活・業務に支障が出て来る.
こうして,震災から1年ほどが経つと公設バラックの取り壊しが進められ始めた.芝公園バラックの住民が強制積み立てや貯金の励行によって,集めた金を元手に内務省社会局に住宅手当の支給を申請し,また日比谷バラックの住民が撤退同盟を作って退去の準備を始めたのに対し,靖国神社や牛が淵附属地の住民は立ち退き派と延期派とに二分して対立した .それは同バラックの建物や衛生状態が他所に比べて良い報道されていたことと関係があるかもしれない .結局,住民は敷地を管理していた陸軍省と直接交渉をし,退去期限を1925年3月まで延期させたという .
行政にとっては皮肉なことではあるが,このような住民運動は,義捐物資を適正に配給するため組織した住民組織が担った.

図2-3九段靖国神社境内のバラック (出典:田中蔵)
2.4上野公園・不忍池畔
住所: 〒110-0007 東京都台東区上野公園3付近
九段の集団バラックは他所に比べて快適であったと述べる記録を転載したが,そもそもこれら集団バラックは外壁が板張りで薄く,床にはアンペラ敷きで天井を貼っていないため,夏はとても暑く,冬はとても寒かった.夏季には屋根のトタン板を外して臨時の通風口を確保して室温を下げたり,蔓生植物の種を小学校の生徒を通じて配布したりという泥縄的対策が講じられた .
不忍池畔の公設バラックは,土地柄,湿気や悪臭があったというが,それでも池の水面をわたる風が涼しく,快適だったとされる(図2-4-1) .また,イタリア・シチリア島のメッシーナで1908年の地震津波の際に考案され,同市から送られてきた『メッシーナ型(プレハブ)バラック』3棟のうち1棟も不忍池に建てられた(図2-4-2)(もう1棟は上野公園竹の台,もう1棟は温存) .
避難者の集積は上野公園の風致を大きく損なってしまったらしく,震災後の花見の際の荒れ具合をみて警邏の警察官が震災当時を思い出したという逸話がある .

図2-4-1上野不忍池畔の避難民のバラック (出典:田中蔵)

図2-4-2メッシーナ型バラック (出典:田中蔵)
参考資料 震災予防評議会(1926),震災予防調査会報告第100号(丙)下,岩波書店,p.225
『記念日を前に復興し行くバラック民』,東京朝日新聞1924年8月15日付
『居心地のよいバラックに腰を据えようと泣きつく』,東京朝日新聞1924年8月21日付
『バラック村住民,陸軍省へ直談判 九段バラック』,東京朝日新聞1924年10月4日付
このようなバラックにおける生活環境改善の試みについては,拙稿(2010),関東大震災と東京の下町--曳家と区画整理 (特集 動くすまい--流動的都市の原風景と未来),すまいろん95,pp.22-25,2010年7月も参照されたい.
『恵まれた不忍の住人,蓮の葉をわたる涼風をうけて』,東京朝日新聞1924年7月19日付
『イタリア寄贈の組立式耐震バラックの救療所』,東京朝日新聞1924年2月13日付
『上野公園,花見のあと,「震災の再来」と警官が嘆く』,東京朝日新聞1928年4月17日付