日本災害復興学会2015年東京大会エクスカーション案内

~大会会場周辺でみる『関東大震災』と『帝都復興』の現場~



5大地主からの土地の供出と本格的な郊外化の端緒
5.1神田一ツ橋の東京商科大学跡地
住所:〒101-0003 東京都千代田区一ツ橋2-1-1(如水会ビル)
〒101-0003 東京都千代田区一ツ橋2-1-2(国立情報学研究所)
〒101-8437 東京都千代田区一ツ橋2-2-1(共立女子大学一ツ橋キャンパス)
現在如水会館、国立情報学研究所、そして共立女子大学一ツ橋キャンパスのある一帯には大正末まで旧制の東京商科大学のキャンパスがあった。震災後、同大学は石神井にあったグラウンドに仮移転したが、のちに一ツ橋キャンパスの土地を箱根土地株式会社の開発した国立(当時は谷保)の土地と交換し、そこに新キャンパスを開設、移転した。 東京商科大学と共立女子職業学校は広いキャンパスを、箱根土地会社は仲介料を、それぞれ得たことになる。
5.2寺院の転出
住所:〒110-0015 東京都台東区東上野4丁目5-6(旧敷地=台東区役所附近) 〒176-0002 東京都練馬区桜台6丁目20-19(移転先)
区画整理の実施で公共用地(道路、公園、学校etc...)が増え、逆に私有地が減ると、世帯あるいは建物あたりの宅地面積は縮小することになる。当時、社寺の境内や墓地は耕地整理法の規定に従えば区画整理の事業地区に編入できなかった(ほかに鉄道用地など。区画整理は耕地整理法を準用する形式で施行)ため、下町に多数立地していた寺院の境内や墓地の面積が減らされないことに対して下町住民からの不満が大きかった。
結局、特別法を定めて寺院の境内や墓地を区画整理地区に編入することに決定したが、寺院の布教や経営に不可欠な境内・墓地の面積が縮小されることになったため、寺院側も従前通りに復旧・復興する訳にはいかなくなった。 本項で示す旧下谷区廣徳寺は塔頭と呼ばれる小寺院を複数、擁していたが、区画整理後、その土地の一部を下谷区役所・下谷小学校・上野警察署の用地として譲渡するように要望されたため、それに応じ、墓地と塔頭を板橋区(その後、板橋区から分離して練馬区)へと移した。 同寺の残りの施設はその後も戦災をはさんで下谷にとどまったが、1970年代に台東区役所が現在の分庁舎を建設する際に廣徳寺も練馬へ移転した。現在は塔頭がひとつ残るだけである。
5.3宅地難緩和のために大規模施設の郊外移転を求める声
住所:〒112-0004 東京都文京区後楽1丁目3-61(東京砲兵工廠跡地)
〒113-0033 東京都文京区本郷6丁目14-8(「本多子爵家祖の神社」跡附近)
〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1丁目8-2(魚市場の旧所在地)
5.2では区画整理を前に市民が寺院に対して不満をもった様子を記したが、宅地難を緩和するために「何らかの施設」を郊外へ移転させようという声は非常に多かった。たとえば、現在東京ドームの一帯にあった東京砲兵工廠が震火災で大きな被害を受け、そこへ1924年12月当時、東京女子高等師範学校(震災までは現在の東京医科歯科大学の位置に所在)が移転する計画になっていたところ、小石川区はそこを住宅地として開放するように請願した(同区では区画整理は実施されなかったが、当時、山の手には多くの被災者が間借りその他の手段で転居しており、宅地・住宅が不足) 。
また、本郷区の森川町会は「小公園設置のために本多子爵家祖の神社を開放するよう請願」した (本郷区では南西隅のみ区画整理が実施され、旧森川町一帯は区画整理の施行地区外に位置。砲兵工廠跡地と同様、避難者が転入していたことが背景にあったと考えられる)。このほか、一般向けの宅地開放ではないが、東京市は震災前に日本橋にあり、震災後は芝浦に仮移転していた魚市場の移転先として築地の海軍大学校敷地の譲渡を海軍に対して要望した 。 移転を要請された側は教育機関や公共施設の設備水準の向上や復旧・復興を実現しながら応じた。
5.4旧松平頼寿邸跡地の再開発
住所:〒113-0033 東京都文京区本郷1丁目3-9(東京都立工芸学校)
〒113-0033 東京都文京区本郷1丁目5-7
〒113-0033 東京都文京区本郷1丁目5-11(讃岐金刀比羅宮東京分社)
〒104-0045 東京都中央区築地4丁目1-1(現東劇ビル)
〒104-0045 東京都中央区築地4丁目2-2(現京橋郵便局)(東京府立工芸学校の旧所在地)
現在、東京都立工芸学校、宝生会能楽堂、讃岐金刀比羅宮東京分社のある一帯は明治以降、旧讃岐藩(御連枝=御三家の分家)主・松平伯爵家の屋敷地であり、震火災時には水道橋から延焼してきた炎に包まれて全焼した。
震災当時の当主は松平頼寿伯爵で、各種団体の幹部を務めていた名士であった。焼跡はまず日本赤十字社の臨時産院の土地として提供された 。彼は日本赤十字社の理事であった。
ついで、築地の旧校地が区画整理で手狭になる東京府立工芸学校(現、東京都立工芸学校)や震災前は神田区猿楽町にあった宝生会能楽堂の移転先として屋敷地を提供した。彼は東京府教育会々長であり、宝生会の理事でもあった。松平伯爵自らは駒込にあった別邸に住所を移した。
参考資料
『小石川区、砲兵工廠跡を住宅地として開放するよう請願」、東京朝日新聞1924年12月16日付
東京朝日新聞1924年12月16日付
東京朝日新聞1924年12月17日付
『皇后陛下、産院を御巡覧』、東京朝日新聞1923年11月19日