日本災害復興学会2015年東京大会エクスカーション案内

~大会会場周辺でみる『関東大震災』と『帝都復興』の現場~



3 近代的な都市施設の整備の現場
3.1神田 区画整理の嚆矢・駿河台
神田駿河台の一帯は帝都復興区画整理に際して,一番最初に換地設計がなされ,一番最初に換地(区画整理で従前の敷地に換えて交付される敷地)先へと建物が移転した地区であるとされる.図3-1-1をみると,本郷通り(図の右手に黒いラインで計画線が描写)の開削を除けば,規模の大きな宅地が殆どであったためか,街区の改変は小さいと感じる. しかし,区画整理という初めて耳にする制度によって地区面積8万坪のなかから1万坪の土地が無償で公共用地へと編入されたから,地権者からの反撥は大きかった.これを和らげるため,「当時,日本で二番目に偉かった西園寺公」の屋敷地をも区画整理し,一般地権者に垂範しようとしたという述懐がなされている が,これは錯誤または演出(誇張)と考えられる(図3-1-1に示したように,西園寺の屋敷は第六地区の外に位置).

図3-1-1 第六地区 換地位置決定図(出典:東京市役所編(1931),帝都復興区画整理誌 第3編各説 第2巻,第六地区附図)

図3-1-2 第六地区での建物移転(出典:田中蔵絵はがき)
3.2神田 神保町および須田町における道路線形の改修・改造
住所:「須田町交差点」が現在の〒101-0041 東京都千代田区神田須田町1丁目5-11地先から〒101-0041東京都千代田区神田須田町1丁目16地先へと移動.
震災に遭遇した時点の東京の交通基盤は江戸時代のそれを市区改正事業によって線的に改造したものであった.中には道路線形を考慮せずに路面電車を何路線も通したため,大変な混雑を引き起こした場所があった(図3-2-1) .有名なのは甲武鉄道/中央線の終着点,万世橋駅とその近傍にあった須田町交差点附近で,その混雑の様子は,北陸の交通の難所・「親知らず子知らず」に喩えられた .
図3-2-2に示すように,区画整理前の街路網(青線が主要道路の線形)では須田町交差点(青い×印)附近に変則的な交差点があり,いくつもの路線が集中していたが,区画整理後(赤線が主要道路の線形)では広幅員道路を新たに開削することによって路線や交差点の分離が図られ,須田町交差点は南東120mほどに移動した(赤い×印,図3-2-3).この大改造はそれまでの須田町交差点に馴れていたひとびとに混乱をもたらすほどの事件であった .

図3-2-1震災前の須田町交差点      (出典:田中蔵絵はがき)

図3-2-3区画整理後の須田町交差点(出典:東京市役所編(1931),帝都復興区画整理誌 第3編各説 第2巻,第八地区附図『第八地区換地位置決定図』に加筆)

図3-2-2須田町交差点の改造(青線=区画整理前,赤線=区画整理後)(出典:田中蔵絵はがき)
3.3神田 九段坂の改修
住所:〒102-0074 東京都千代田区九段南2丁目2 田安門前歩道橋から東方
九段坂は帝都復興事業によって勾配が緩やかに改められるまで,坂の下にリヤカーを押して駄賃を得る立ちん坊と呼ばれるひとびとがいるほど急で,路面電車は堀端に作られた勾配の緩い専用軌道を走っていた(図3-3-1,図3-3-2).当局は震災後,坂の上から東方へ長大な陸橋を掛けることで坂の上り下りの労を軽くしようと計画した が,結局は坂を削って所期の目的を達成した.
勾配が緩やかになったため,また坂の両端に歩道を設ける必要が生じたため,路面電車は道路の中央部分を走るよう改められた(図3-3-3).九段坂の地下には共同溝も整備されていた.

図3-3-1震災前の九段坂と専用軌道       (出典:田中蔵絵はがき)

図3-3-2 震災前の九段坂下(道路と専用軌道の分岐) (出典:田中蔵絵はがき)

図3-3-3切り下げ工事後の九段坂 (出典:田中蔵絵はがき)
3.4日本橋・本郷での公園整備
復興事業では大小の公園が各所に整備され,平時の休憩・災害時の避難に供されることになった.復興大公園は浜町公園(図3-4-1),隅田公園,錦糸公園の3箇所,復興小公園は52箇所が設けられた(図3-4-2:元町公園).
浜町公園は震災まで細川家をはじめとする華族の屋敷地(幕末に細川家が建てた清正公寺がその名残)や住宅地であった土地に設置された.公園は幅員33mの金座通り(清洲橋通り)に直交した幅員35mの並木道路の突き当たりに位置している.並木道路は南北方向の延焼遮断と同時に浜町公園への避難路の安全性確保を企図したものと考えられる.浜町付近の隅田川が遊泳場であったためか,園内にはプールもあった .
復興小公園の事例として取り上げた元町公園は,復興小公園の中では珍しく,高低差のある敷地に設けられている.本郷台地の南東端(神田川以北)の崖下には震災までは住宅が立ち並んでいて,震災時には水道橋駅付近からの火流がそれら家屋を伝って本郷台地上まで達した.江戸時代の大火でもこの崖を乗り越えて延焼したことがあったから,火災時には地形に起因して局所風が発生するのかも知れない.元町公園の北側には旧元町小学校校舎が建っているが,同校はおよそ100m北東に離れた地点からここに飛換地され,コの字型平面の鉄筋コンクリート造3F建ての校舎が元町公園の植栽とともに避難空間を構成した.

図3-4-1浜町公園の俯瞰(矢印は後述のあずまや,右手前から中央部に向けて伸びるのが並木道路)

図3-4-2元町公園の階段とカスケード

図3-4-3元町公園周辺の変遷 参考資料
日本建築学会編(1972),近代日本建築学発達史,丸善,p.1028
震災前の東京の都市問題を論じた福田重義(1918),新東京,建築雑誌1918年8月号,pp.40-41によれば,市区改正事業は「...主として両陛下行幸啓及大官出仕の通路等に関する点に重きを置き,之に尚他の考慮を加味して市区の改正,道路幅員等を改正したるものなれば,概して改造に非ずして,在来の道路を応用修正したるに止まり,其形状,幅員等に関して其改正理由等に於ける根本研究に乏し」いまま行われたという(下線,引用者).
「親知らず子知らず」という表現は,(1)田山宗尭編(1912),東京府名称図絵,ともゑ商会,(2)満寿志(1921),東京市内の奇観(その二),建築画報1921年10月号,p.24,(3)『東京が生れ更る姿(三)九段界隈面目を一新』,東京朝日新聞1924年4月15日付, (4)今和次郎編(1929),新版大東京案内,中央公論社,p.212,(5)『復興帝都の新風景(9)』,九州日日新聞1930年3月24日付などにみられ,当時一般的に聞かれた譬えと考えられる.
『八幡知らずの須田町交差点 変な交通標にとまどいする通行人』,東京朝日新聞1929年8月8日付.区画整理によって須田町交差点の位置が移動し,廣瀬中佐の銅像,古着屋街として有名であった柳原通り,また万世橋駅がすべて裏通りに位置するようになったこと,電車の乗り換えが不便になったり,道に迷うひとびとが現れたため,標識が設置されたと報じている.見出しにある「八幡知らず=やわたしらず」とは迷い込んだら抜け出せないという意味の表現である.
この陸橋計画については,『九段坂の変更を 麹町区会調査』,東京朝日新聞1924年9月16日付で陸橋がつくられて歩車分離が実現すると,橋の両側が歩道となり,その歩道に面して橋の下に店舗が開かれるという報道があり,橋の両端が歩道になるのではなく,橋は車道専用で,その側道として歩道(人道)が計画されていたことが伺える.この陸橋は俎橋から偕行社前まで陸橋が架けられる計画であった(『牛が淵付近の改修工事(九段坂)』東京朝日新聞1925年6月6日付).
『出来上つた浜町プール』東京朝日新聞1929年11月14日付によれば「浜町公園内の南東隅大川に接した樹林の中に」完成したプールは,附近の商店に勤めている「番頭さんや小僧さん達にうんと利用してもらふやう夜間使用の設備に至つては水上,水中証明の装置が施されてゐ」た.